リングの足跡
東洋太平洋バンタム級チャンピオン・WBA・WBC世界1位
村田英次郎(金子)
日本のボクシング界はファイティング原田、六車卓也、辰吉丈一郎、薬師寺保栄の4人(IBFの
新垣諭を含めると5人)の世界王者を生み出している。最強は原田だとして異論は無いだろうが、原田
の次に強い日本人バンタム級選手の名をあげるとしたら迷わず、村田英次郎の名を思い浮かべる。何故、
そんな実力者が世界王者として君臨できなかったのだろう・・。
村田は少年時代、あしたのジョーに憧れ小学校の卒業文集に「世界チャンピオンになりたい」と書き、
夢を目指して中学校を出ると高校にも行かず、上京して金子ジムに入門。16歳でアマの全日本社会人バ
ンタム級王者となり昭和51年に19歳でプロデビューした。必殺の右のカウンターでKOの山を築き、
連勝街道を走って、53年には東洋太平洋バンタム級の王者となった。世界3位までランクも上昇し、
55年についに念願の世界挑戦が決定した。
挑戦した世界王座はルペ・ピントール(メキシコ)がもつWBC王座でピントールは42勝34KOの
ハードヒッターである。バンタム級歴代名王者であるカルロス・サラテ(メキシコ)から王座を奪い、バ
ンタム級の名王者となっていたピントールはあまりにも危険な相手で村田には勝機はないと見られていた。
しかし、ふたを開けてみれば不利の予想を覆して大激戦を展開した。14ラウンドのあわやKO負けの
ピンチを脱して、逆に最終ラウンドにはピントールをKO寸前に追い込み試合終了。勝ったと思われたが、
判定は無情にも引き分けでタイトル奪取はならなかった。
翌年には蔵前国技館で歴史の名王者、ジェフ・チャンドラー(米)のWBA世界バンタム級王座に挑ん
だ。第1ラウンド、村田必殺のカウンターが炸裂してチャンドラーが吹っ飛ぶ。しかし、チャンドラーが
背にしたロープに救われ、ダウンは奪えず。試合は白熱の展開を見せ、勝負は判定となった。「ドロー!」
何とまたしても引き分け・・・。あの第1ラウンド、チャンドラーの背に、ロープがなかったら世界王者
だったものを・・・。WBC、WBAの王座に挑み、2度とも引き分けたのは永いボクシング史上、村田
英次郎ただ1人であった。
同じ年の12月にはアトランチックシティで再びチャンドラーがもつ王座に挑んだが、コンディション
不良でリングに上がり、前回の善戦がウソのように打ち込まれて13ラウンドTKOで敗れ去った。村田
初黒星。
東洋太平洋王座を12度も防衛し、三度、チャンドラーに挑んだが、何度もキャンバスに落ちては立ち
上がり粘ったものの10ラウンドには3度も倒され、KOに敗れ去った。村田は燃え尽きた・・。
私がボクシングにのめり込んだのはこの村田英次郎でした。人々の多くは憧れのボクサーが世界のベル
トを巻く姿に憧れ、ボクシングの世界にやってくる。私の場合は違う。1981年に英雄、具志堅用高が
世界王座から転落し、この村田が世界の夢を成し遂げることなく散っていった。私は勝つ美学より、人の
心を痛烈なショックを与えるヒーローの転落を見てボクシングにのめり込んだ。村田はいつもどんな試合
でもこう思っていたという。「今日こそノックアウト負けする」・・。ボクシングのもう一つの魅力かも
知れない。いつヒーローが倒され、ショックを受けるという怖さがボクシングにあると思う。
世界王者の実力を持ちながらWBC、WBAにあまりに強すぎる王者が君臨していたため、世界に到達
できなかった悲運のボクサー村田英次郎。世界に到達したボクサーは永遠にその名を刻まれ、決して忘れ
られられないだろうが、敗れ去って消えていく物は忘れ去られる。私は村田という勇敢なボクサーを永遠
に語り続けていきたい。村田の全戦績は24勝(15KO)2敗3分。チャンドラーに喫した2敗がむな
しく刻まれている・・・。
現在はエディ・タウンゼントジムの会長として世界王者を育成しながら第2の人生を生きている。
「リングの足跡」の感想をお聞かせ下さい。
拳キチ伝言板
このコーナーにお問い合わせはkenkichi@ic-net.or.jp
リングの足跡目次へ
拳キチ倶楽部へ
ホームへ戻る